国語科の「Estoy ocupado.」あらかわです。この校舎ブログでは私が面白いと思った小説や作家をいろいろと紹介し、能書きを垂れたいと思います。
お待たせしました。お待たせし過ぎたかもしれません。
では「その1」からの続きで、森絵都の最高傑作であり、2017年本屋大賞第2位にも輝いた『みかづき』の紹介です。
1部と2部は不器用な夫婦の物語になる。これがまあ面白い。何が面白いって、教育に対して真摯に向き合う夫婦ふたりのぶつかり合いだ。
よくある勧善懲悪ものであれば、正義に対して分かりやすい悪、つまり「間違っている存在」がいれば読者に提示しやすい「対立構造」が生まれる。物語とは結局のところ、この「対立」を如何にして解消するかに尽きる。
しかし、登場人物全員が善人だった場合になると、誰もが間違っていない。誰もが正しいことをしている。それぞれの正義の形が違うがゆえに、ぶつかり合う。お互いの正義を主張するために相手を貶める。当然答えがあるわけではなく、お互いにただお互いの正義を「信じている」だけである。ここに強烈なドラマが生まれる。だがそれでも登場人物たちを嫌いにはなれない。彼らはただただ自分の正義を信じて、みんなが幸せになる方法を模索しているだけなのだから。
で、その夫婦の諍いを描いたあとに続く最終章は、夫婦の孫が主人公になる。しかしここに来て、今まで物語のすべてを背負ってきた夫婦から孫へと視点を移したことで、ここまで保っていたテンションが落ち着いてしまうのだ。
しかも夫婦が常に抱えてきた難問「日本の教育を変える!いつやるか?今でしょ!!」に比べて、孫の悩みがまぁ小さい。そのスケールの小ささに思わず「お前、しっかりしろよ」と言いたくなる。
だが、そこはさすがの森絵都である。ちゃんとそれも計算ずくで構成されている。大団円のラストへと突っ走ってくれる。
私は『みかづき』を読み終わったときに思った。これだけの満足感を読者に与えるために、森絵都はこれだけの文量を必要とし、そして3部構成の物語を築き上げたのである。この満足感は、個人的に「面白い小説3冊分」であった。
タイトルの『みかづき』は、我々人間の未完成さを皮肉る象徴として使われることもあれば、すべてを満たすことはできない「教育」の比喩としても機能している。考えてみれば、私たちは常に足りないものに目を向けて生きている。自分の足りない部分が気になって仕方がない。
「足るを知る」ということも重要であるが、足りなさに目を向けるだけのハングリーさがあるからこそ、「次の世代には、未来はもっと良くなってほしい」という願いが生まれ、教育というシステムが構築されていくのだ。この願いは非常に尊いと思う。
私たちはいつまでも「みかづき」である。でも「みかづき」だからこそ生まれる美しさが、いつだってあると思う。