こんにちは、富士南校の平田です。
先日は清掃活動お疲れ様でした。
初めての緑地公園、なかなか楽しめました。
やたらと「枝を折る」作業が多かったですが、腕力の鍛錬にもなってよかったです。握力アップしたかな。
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長徳2(996)年4月24日、藤原道長と関白の座を争った藤原伊周が、九州の大宰府に左遷されました。
安和2(969)年の安和の変ような一族の危機には固く結束する藤原氏ですが、外敵がいない状況では、一族同士で争うようになります。
道長の父・兼家の後を継いだのは長兄の道隆でした。道隆は若くして亡くなったため、その子・伊周は関白を継ぐには若かったため、次兄の道兼が継ぎました。しかし病気のため、関白就任後わずか七日で亡くなりました。「七日関白」と呼ばれています。明智光秀の三日天下よりは長いですね。道兼の後を道長と伊周で争いました。時の一条天皇は母・藤原詮子(道長の姉)からは道長を、妻・藤原定子(伊周の妹)からは伊周を推され、悩み抜いた結果、道長を後継者に決定しました。
不満タラタラの伊周でしたが、前天皇・花山法皇が自分の恋人に言い寄ろうとしているという情報をキャッチしました。実際はその妹が目当てだったのですが、怒った伊周は法皇に弓矢を射かけてしまいます。元天皇に向けて矢を射るなどとんでもないこと。この事件で伊周は左遷。道長にとって最大のライバルが自滅してくれたのです。この結果、藤原氏の本家は道長の系統へと移るのでした。「この世をば…」が出てくるのはこの20年後のことです。