こんにちは、富士南校の平田です。
4月5日(金)~7日(日)の3日間、
富士南校は休校となります。
この3日間は授業だけでなく、自習室もありません。
お間違いのないよう気をつけてください。
大永3(1523)年4月7日は室町幕府10代将軍・足利義稙が逃亡先の阿波(徳島県)で亡くなりました。将軍が逃亡?そもそも義稙って誰?って言われそうですね。ちなみに読み方はよしたね。義材(よしき)→義尹(よしただ)→義稙と改名しますが、一般的には義稙で通っています。
義稙の父は足利義視。8代将軍足利義政の弟で、兄から将軍を譲られることになっていました。しかし、義政に実子・義尚が生まれたために、全国の大名が真っ二つに分かれて争うことになりました。応仁の乱です。結局将軍は義尚が継ぎ、義視は美濃(岐阜県)に亡命しました。
しかし、9代将軍となった義尚が25歳で病没したため、義視の子・義稙に10代将軍の座がめぐってきました。これで復活、と思いきや、管領・細川政元と対立し、わずか4年半で将軍の座を追われてしまいました。
この後、将軍復職をめざして逃亡生活を送りますが、周防(山口県)の大名・大内義興のバックアップにより、13年半ぶりに将軍に返り咲きました。鎌倉・室町・江戸の3幕府の将軍の中で、将軍職を再任されたのは義稙ただ一人です。
将軍再任から13年半後、義稙は管領・細川高国と対立、京都を追われました。そして2年後、阿波で亡くなりました。何とも慌ただしい人生でした。