校舎ブログをご覧いただき、誠にありがとうございます。
校舎長の横森です。
さて、本日ですべての中学校が三学期の期末終わり!!
みなさん一年間お疲れ様でした!!
上条中の中1&中2はだんだん結果が戻ってきています。
自己ベスト更新&高得点ゲット&成績アップの報告が次から次へ。
みなさんが笑顔で成績報告してくれるのがうれしい限りです。
さてさて、あとはいよいよ3年生。
本日2月27日から、後期入試まではちょうどあと1週間。
私から受験生に贈る言葉は常に一つ。
「天気晴朗ナレドモ浪髙シ」
日本の歴史上で私の知っている限り、屈指の名文です。
書いたのはこの人。
(wikipedia 秋山真之より)
大日本帝国海軍の秋山真之中佐です。
日露戦争の日本連合艦隊の参謀を務め、
長官・東郷平八郎に「智謀湧くが如し」と評された名将です。
日露戦争はなかなかきわどい勝利を日本が拾い続けた戦争でもあります。
➀陸軍 旅順攻略
(アジア歴史資料センター 日露戦争特別展より)
遼東半島の先っちょに旅順要塞というのがありまして。
当時のアジアで数少ない大型の洋式要塞でした。
だからロシアは三国干渉などと言って、日本から遼東半島ごとかすめ取ったわけです。
乃木希典率いる陸軍は大苦戦。近くの二〇三高地を激戦の末に奪い、大口径の大砲を使ってなんとか旅順を奪います。
日本側の戦死者、15000名。負傷者も合わせると60000名もが犠牲になった攻略戦でした。
➁陸軍 奉天会戦
遼東半島を捨てて後退するロシア軍を日本陸軍が追い、満州の荒野で日ロ両国の全陸軍が激突した戦いです。
日本軍240000VSロシア軍360000。数で不利なうえに、ロシアは満州の地理を知っています。
そして何より、日本は旅順攻略戦の直後です。日本圧倒的不利。
日本軍は総力戦を仕掛けますが、案の定ボコボコにされ続けます。
乃木将軍の第三軍は崩壊寸前まで追い詰められます。
活躍したのは秋山好古少将率いる騎兵隊。世界最強最大の10万ものコサック騎兵隊を、
わずか8000の騎兵隊で撃退します。
(wikipedia 秋山好古より。実は秋山真之中佐の実の兄です)
これにビックリしたロシア軍は「戦略的撤退だ!」と言いながら奉天の街を捨ててロシアへ逃げてしまいます。
日本軍、また15000もの戦死者を出しましたが、なんとか勝利。
しかし「戦略的撤退」のおかげで、日露戦争の勝利は海軍にかけられます。
➂海軍 日本海海戦
バルト海から大西洋→インド洋→日本海と、7か月かけて旅してきたバルチック艦隊と、
東郷平八郎率いる日本の連合艦隊の戦いです。陸軍の勝利を受けて、この戦争の勝敗を決める戦いでした。
バルチック艦隊が旅してくる間、日本艦隊は戦場となる日本海でひたすら訓練を続けました。
そして1905年5月27日。バルチック艦隊と日本海で鉢合わせになります。
(wikipedia 戦艦三笠艦橋より。日本海海戦直前の図です。真ん中で双眼鏡と指揮刀を持っているのが東郷長官、右隣で書類を見ているのが秋山中佐です)
そこで突然日本艦隊が一回転します。俗に言う「東郷ターン」というやつです。
お互いに先頭の旗艦(艦隊の長官が乗る船)をボコボコに打ち合うのですが、そこは日本。
徹底的な訓練と参謀・秋山真之による徹底的な作戦が活きます。
波の高い日本海でロシア軍は砲撃を満足に行えない一方、日本軍は正確に旗艦クニャージ・スヴォロフを打ち抜きます。
結果、日本海海戦は日本側が水雷艇(小舟)3隻を失ったのに対し、バルチック艦隊は戦艦21隻沈没ほぼ全滅に終わります。
この結果、ロシアはアメリカの誘いに従って、講和の席に着くことになります。
んで。
これだけ苦労した日露戦争の勝敗を決めた日本海海戦。
ロシアのバルチック艦隊が日本海に現れたとき、秋山中佐が東京の大本営に向けた電報に、
「本日天気晴朗ナレドモ浪髙シ」
と書き込みます。これ、
「天気晴朗=晴れてる」
→しっかり晴れてるので敵を見逃すことはない
「浪髙シ」
→波が高いので相手には不利だが、訓練を重ねた日本側にとっては有利
という意味だとされています。
すごいですよねぇ、わずか13文字でこれだけの情報量。しかも空と海の表現で美しいですよね。
それもそのはずというか、秋山中佐は東大出身&親友は正岡子規だったりします。
まあつまり。
「本日天気晴朗ナレドモ浪髙シ」
=
「相手がはっきりしていて、しっかり準備した人にとっては有利!」
という意味です。
あと7日間。
ここまでの何百日、しっかり勉強してきたみなさんにとっては必ず勝てる戦いです。
みっちりしっかりやって、本番を迎えましょう。
すっごい余談ですが、日本海海戦のときの日本側の旗艦「三笠」は今も横須賀に現存します。
日露戦争の歴史を知らなくても、戦艦に乗れる場所って滅多にないですからおすすめですよ。