こんにちは、中島校の平田です。
10月7日(土)は英検の本番です。間違いのないように気をつけてください。
5級 14:00~15:00
4級 14:00~15:20
3級 15:30~16:50
準2級 14:00~16:00
2級 14:30~16:30
10月14日(土)は地域清掃活動・第二弾
例によって米之宮公園にて行います。 午後2:30~3:45 中島校集合です。 塾生、保護者様、お友だち、卒業生、卒業生の保護者様…皆さまのご参加を心よりお待ちしております。
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慶安3(1650)年閏10月3日、初代長府藩主・毛利秀元が亡くなりました。一時期本家・毛利輝元の養子となっていました。豊臣秀吉は子のない輝元に、自分の甥を養子に送り込み、毛利家を乗っ取ろうとしていました。これに対して、輝元の叔父で毛利家中随一の頭脳と呼ばれていた小早川隆景は、毛利本家の血筋を守るために、秀吉の甥を自分の養子へと迎え入れました。後に関ヶ原の戦いで裏切る小早川秀秋です。その後輝元に実子・秀就が生まれたため、秀元は分家を立てました。
関ヶ原の戦いに家老の吉川広家(輝元の従兄弟)と共に出陣した秀元でしたが、広家は徳川家康と密約を結び、毛利本隊を戦いに参加させないので、毛利家の領地を存続させるように働きかけていました。秀元は南宮山の山頂、広家は麓に陣取りました。広家が動かなければ秀元も動けません。毛利軍が動かないので、近くに陣取った長宗我部盛親、長束正家らも動けませんでした。周りから出陣を催促された秀元は、「今兵たちに弁当を食べさせている最中なので、もう少し待ってくれ。」と言って時間稼ぎをしました。後に「宰相殿の空弁当」と言われました。
関ケ原の戦いが終わった時、輝元は秀頼と共に大坂城にいました。秀元はこのアドバンテージを活かして家康と決戦すべきだと主張しましたが、