こんにちは!
羽鳥校の作原(社会科)です。
まだまだ寒い風が吹く日々ですが、
だんだん、暖かい春が近付いてきているような
気配も感じる毎日ですね。
静岡では、梅の花も満開に咲き、
桜も、早咲きの河津桜などは、咲き始めていますよ。
桜といえば、吉野(奈良県)の花見が特に素晴らしいそうで、
私は、まだ花の季節に行くことはできてませんが
いつか絶対見に行きたい!! と思っています。
(南朝皇居・吉水神社。私が訪れたのは2017年の秋でした)
後醍醐天皇が仮の住まいとした、吉野の行在所(あんざいしょ)がここにありました。
鎌倉幕府滅亡後、「建武の新政」の混乱、足利尊氏の挙兵によって
後醍醐天皇は京都から逃れ、朝廷の機能を吉野に移しました。
足利尊氏は、吉野の朝廷を認めず、新しい天皇を京都で即位させました。
吉野の朝廷(南朝)と京都の朝廷(北朝)が並び立つ時代が約60年続き、
この時代を「南北朝時代」といいます。
南北朝時代に関しては、「太平記」「梅松論」という二つの文献があります。
「太平記」は軍記物語で、南朝(後醍醐天皇)の事績を賛美する内容。
「梅松論」は歴史書で、北朝(足利尊氏)にも理解を示し、中立的な内容です。
日本全体が二つの勢力に分かれて争ったので、解釈のずれもありますが、
同じ事件で食い違いがある場合は、歴史書である「梅松論」の記述が基本的に信用されています。
私の話になりますが、この「南北朝時代」というものが、学生の頃、あまり理解できませんでした。
教科書の記述では、
「尊氏が、武家政権の復活を目指して兵を挙げると、新政は2年半で崩れ去りました」
というシンプルな文で書かれています。
ですが、当初は後醍醐天皇と歩調を合わせて戦っていたはずの足利尊氏。
なぜ、急に変心し、兵を挙げたのか?
この大事な点が省略されているので、わからなかったのです。
①「建武の新政」が天皇中心、貴族優先、武士に冷たい政治だった、という背景
②北条氏残党が起こした反乱(中先代の乱)鎮圧に向かった尊氏のもとに、多くの武士が集まってしまったこと
③大軍勢を率いる足利尊氏に対する後醍醐天皇の疑心暗鬼
これらが重なり合い、後醍醐天皇と足利尊氏の対立が戦火を呼ぶことになりました。
「教科書の行間を埋めること」
これが、歴史を理解することだとすれば、
そのお手伝いをすることが、教師の仕事だと考えています。
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「先生! この時代がわからないです」
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それでは、今日はこれにて。
作