こんにちは、中島校の平田です。
令和4年の授業は本日で終了となります。生徒・保護者の皆様、本年も大変お世話になりました。年明けの授業は
小4…1月11日(水)17:00~
小5・小6…1月5日(木)17:00~ または1月6日(金)17:00~
中1…1月4日(水)19:00~
中2…1月5日(木)19:00~
中3…1月4日(水)14:00~
自習室は1月4日(水)13:00~
小学生欠席補講1月4日(水)13:30~
となっています。よろしくお願いします。
また、1月16日(月)より中学準備講座が始まります。
申し込みがまだの方は料金を添えてお申し込みください。
令和も来年で5年ですね。最近改元したと思っていたら、もう5年。早いものですね。
長かった年号といえば、1位は昭和の64年、2位は明治の45年ですが、3位は「応永」という年号が35年続きました。江戸時代以前は天皇ごとに年号を変える「一世一元」ではなかったので、かなり短期間に改元していました。その中で35年というのはかなり異例なことです。なぜこんなことになったのでしょうか。
応永に改元したときの権力者きは室町幕府第3代将軍・足利義満でした。あの金閣を立てた人です。中国・明の皇帝・洪武帝を尊敬していた義満は新しい年号として「洪徳」を要請しました。しかしこれは拒否されました。「洪」は洪水につながって縁起が悪いこと。また、現在の年号が「明徳」だったので、「徳」が続くことになり、これも縁起が悪いからということでした。
こうして「応永」となった訳ですが、これに腹を立てた義満は、以後改元の要請を拒否し続けました。応永15(1408)年に義満が亡くなりました。跡を継いだ息子・義持は、義満と仲が良くありませんでした。義持はそんな父を不愉快にさせた「応永」を気に入っていたため、義持も改元を拒否し続けました。応永35(1428)年に義持が亡くなり、漸く改元されることらなりました。新年号は「正長」。しかし、「日本開白以来、土民の蜂起之初めなり。」といわれた正長の土一揆が起きたことにより、わずか2年で改元されてしまいました。