羽鳥校2 帰ってきたぼんくら道 Part38 「開国の港にのりこむ」

こんにちは!
羽鳥校の作原(社会科)です。
今日は、歴史関係の話を書いてみたいと思います。

歴史を研究するときには、
①「文献を読む」(図書館でできます)
②「考古資料(遺物)を見る」(博物館でできます)
③「フィールドワークをする」(現地に行きます)
という、三つのやり方があるのですが、
コロナ禍になり、「フィールドワーク」は本当にしにくくなってしまいました。

「県境や国境をまたいで遠くに行く」のを控えなければならない今。
それならば、「県内の土地をもっと深く探ろうじゃないか!」ということで、
先日の週末休み、伊豆半島・下田に行って参りました。

下田は、日米和親条約(1854年)により、函館とともに開港された港です。
現在は観光業と漁業がメインの町ですが、
江戸時代には、菱垣廻船・樽廻船の中継港として、
物流の面で大いに栄えていました。

江戸幕府は、大名や民間の密貿易を防ぐために、小型船の建造しか認めなかったので、
当時の和船は長距離の航海ができず、沿岸の港々を「各駅停車」で移動しました。
物資集積地の大阪から、大消費地の江戸へ行く船は、
伊豆半島を越えるとき、必ず下田に泊まります。

「出船・入船、三千艘」

と呼ばれるほどの繁栄ぶりだったということです。
幕末期、海外に開かれた「下田」とは、そういう港なんですね。
(ちなみに函館も似たような港で、あちらは東廻り航路・西廻り航路の中継港でした)
以下、訪問した場所を簡単にご紹介します。

先ほどの記念碑から「ペリーロード」を10分ほど歩くと、こちらにつきます。
了仙寺というお寺。ペリー艦隊乗員の宿所として使われました。
下田は寺院が多いです。
急に受け入れることになった外国人用の宿として、
ほかにも多くの寺院が利用されました。

こちらは同じく、下田市内にある玉泉寺です。
アメリカの総領事・ハリスが駐在しました。日本最初のアメリカ領事館です。
日米修好通商条約を井伊直弼と結んだアメリカの外交官」
として知られているハリスですが、伊豆での生活の間、いろいろな逸話を残しています。

これは、ハリスが使用人に命じて牛乳を集めさせた逸話をもとに建てられた「牛乳の碑」。
日本で牛乳を普及させた人物として称えられています。
食事にこだわりが深い人物だったようで、
ほかにも無理を言って牛肉を用意させたりと、
幕末開港当時の下田の珍風景が目に浮かぶようです。

下田に行かれることがありましたら、ぜひ一度訪れてみてください!
併設の「ハリス記念館」もありますよ。

今日はここまで。