前回の続きです、、、。
では、『アッツ島血戦勇士顕彰国民歌』の一番の歌詞を書いていきたいと思います。
“刃も凍る北海の
御楯と立ちて二千余士
精鋭挙るアッツ島
山崎大佐
指揮を執る
山崎大佐
指揮を執る”
という歌詞ですが、山崎大佐という人物が出て来ます。私は5、6歳の頃から太平洋戦争においてアッツ島が日本軍初の玉砕した島であることは知っていました。また歌に出て来る通り、山崎大佐が最高指揮官であったことも知っていたのですが、山崎大佐がどこの出身でどのような考えを持った軍人であったかは全く知りませんでした。前回書いたように時間が空いた時に、
『必要に迫られないで』
ネットでアッツ島・山崎大佐と検索したところ、ビックリ!
山崎大佐は都留市出身で、現在の日川高校を卒業後、軍人の道を進んで行くことになることを知りました。
エッ、都留市の出身!! 驚きと感動でニャンコ先生の胸は一杯になりました。
以下に、ネットで調べたものをそのまま転載させてもらいます。
山梨県南都留郡禾生村(現:都留市)出身[1]。現在の都留市四日市場の保寿院住職の山崎玄洞の二男として生れる。日川中学校、名古屋陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1913年(大正2年)5月、陸軍士官学校(25期)を卒業、同年12月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第15連隊附となる。1918年(大正7年)4月から1920年(大正9年)12月までシベリア出兵に従軍。同連隊の大隊副官、中隊長を務め、1928年(昭和3年)5月、済南事変に出動。以後、同連隊の沼田中学校配属将校、大隊長を歴任し、歩兵第50連隊補充隊長、第36師団兵器部長などを歴任。1940年(昭和15年)3月に陸軍歩兵大佐に進級し歩兵第130連隊長を拝命。
この続きは、次回にしますね。