羽鳥校2 ぼんくら道 Part60 「ちょっと新潟へ」

こんにちは!
羽鳥校の作原(社会科)です。
今日は朝から雨模様の静岡市。
台風も(?)、また来ているようですね。
お知らせがある場合は、このブログでお伝えします。

新潟へ

先日、車を運転して新潟県へ行ってきました。
会津編、京都編、につづく「旅もの」です。
新潟県といえば、「米の単作」で有名。授業ではかならず教えています。
長野県から北上し、
柏崎を過ぎて日本海沿岸に出ると、見渡す限りの水田が果てしなく広がっていました。

気分が上がってきますね。
私は司馬遼太郎のファンで、
十五歳のときに小説「峠」を読んで以来、
絶対に一度、新潟に行きたい! と
あこがれてきた土地なんです。

「峠」について

今から六十年前の1960年代に、
司馬遼太郎は、幕末・明治維新関係の小説を大量に執筆・発表しました。
自らも出征した昭和の戦争(太平洋戦争)を考えたとき、

「日本の戦争の本当の原因は、明治維新にあるのではないか?」

という思いに至ったそうです。
坂本龍馬を書いた「竜馬がゆく」、新選組と土方歳三を書いた「燃えよ剣」など
有名な作品がこのころ発表されています。
」もまた、同じ時期に執筆された作品で、
幕末の越後長岡藩(新潟県長岡市)を生きた武士・河井継之助を書いています。

河井は、新政府の西軍と旧幕府勢力の東軍が戦った戊辰戦争で、
新政府への従属を一方的に求めてくる西軍に対して、
藩の主権と独立を守るため、戦いを選んだ人物です。

この論理が、同じ東軍で戦った会津藩など、ほかの旧幕府勢力とは違っています。
東軍一般の戦争目的は、「徳川幕府の恩義に報いるため」というのが多いですが、
河井継之助の目的は、「長岡藩を独立国にする」でした。
乱世である幕末期には、本当にいろんな人物が出てきますが、
そんなことを考えた人は河井しかいません。
この突飛なアイデアを、彼は開港地横浜に来ていたスイスの武器商人から得ました。

「ヨーロッパには独立国スイスがある。ならば、日本にも独立国長岡藩を作ろう!」

ということです。
すごい思想ですよね。

明治元年正月、戊辰戦争が始まり、
会津攻略を目指す新政府軍は、六月には長岡に進みます。
河井は、新政府の参謀に自分の論を展開しました。

場所は、新潟県小千谷市にある「慈眼寺」というお寺です。
会見で使われた部屋が当時のままで残されていました。
河井はこの席で、次のように述べたと伝わっています。

①「新政府は会津征伐をするというが、それは薩長の私情の戦で、大義名分がない」
②「内戦を続けて国力を損なえば、日本が外国に侵略されるかもしれない」
③「新政府と会津藩は和平すべきで、我が長岡藩は中立国として仲介したい」

これらの提案は、新政府にとっては認められない内容でした。
会津攻めに反対ということは、我々の敵だ!
そう単純に思い込んだ参謀たちは、この論に怒り、
河井を追い返してしまいました。
戊辰戦争の中でも会津の戦いと並ぶ苛烈な戦闘になった
長岡の戦い(北越戦争)がここに始まります。

そんな歴史を持つ新潟県長岡市に、今回、二泊三日で行ってきました。
長岡や小千谷には、北越戦争で戦った人々のために建てられた記念碑が、
このようにたくさんあります。

ちょうどこのあたりに、当時は新政府軍の砲兵陣地がありました。
向こうに見える山は、朝日山、榎峠という長岡藩の陣地で
信濃川を挟んで向かい合った状態から、砲撃戦が発生。
この撃ち合いが長岡の戦いの初戦になりました。

新政府軍は、長岡藩のような小さな藩が立ち向かってきても、
簡単に潰すことができると考えていたことでしょう。
しかし河井は、戊辰戦争の発生することを数年前から予期しており、
何年もかけて藩を改革し、軍備も戦国時代の制度をやめ、
刀も槍も捨て、近代的な軍隊に作り替えていました。

中でも有名なのが「ガトリング砲」。手動式の機関銃です。
二門、アメリカから輸入していました。
薩摩藩、長州藩、会津藩どころか、旧幕府でも持たなかったものです。
また、最新式の大砲で射程と威力の高い「アームストロング砲」も購入。
兵士に持たせる銃はすべて最新式のライフルに更新し、全員に持たせました。
河井の改革のもとで、長岡藩は戦闘に備えていたのです。

小藩である長岡藩がこのように重武装しているとは誰も思わず、
長州藩の部隊は、戦闘で指揮官が撃たれ、戦死するなど
被害が続出しました。
しかし、毎日続いた銃撃戦の中で、河井も足を撃たれる重傷を負い、
両軍の兵士たちも、次々に倒れていきました。

北越戦争最大の激戦地となった「大黒古戦場」です。
博物館が作られ、戦いの激しさを今に伝えていました。

ここに一面に広がる水田は、かつては広大な沼地でした。
北越戦争では、泥の中で両軍の部隊が射撃と突撃を連日繰り返したため、
今でも、田畑や木の幹の中から、銃砲弾や、ライフルが見つかることもあるそうです。

長岡藩は激しく抵抗しましたが、大兵力の新政府軍に徐々に押されていき、
残存兵は会津に逃れ、さらに戦いました。
河井継之助は、戦闘での負傷がもとで、会津に後送される途中、命を落としました。

河井に対する評価は、現在でも分かれています。
自分の理想とするところを実現するため、行動力を発揮して実行した改革者という評価。
そして、平和な長岡藩を戦争に巻き込み、多くの犠牲者を出してしまったという批判です。
どちらも当たっていると私は思います。
多くの改革を成功させた河井継之助は、物事を行なうにあたって大事なポイントとして、次のような言葉を残しています。

「まわりの評価を気にしてやるようではだめである。自分が正しいと思ったことをすぐにやりなさい」

幕末に異才を煌かせた長岡の英雄・河井継之助の魅力は、今でも多くの人を惹きつけています。

 

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