こんにちは!
羽鳥校の作原(社会科)です。
今日は朝から雨模様の静岡市。
台風も(?)、また来ているようですね。
お知らせがある場合は、このブログでお伝えします。
新潟へ
先日、車を運転して新潟県へ行ってきました。
会津編、京都編、につづく「旅もの」です。
新潟県といえば、「米の単作」で有名。授業ではかならず教えています。
長野県から北上し、
柏崎を過ぎて日本海沿岸に出ると、見渡す限りの水田が果てしなく広がっていました。
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気分が上がってきますね。
私は司馬遼太郎のファンで、
十五歳のときに小説「峠」を読んで以来、
絶対に一度、新潟に行きたい! と
あこがれてきた土地なんです。
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「峠」について
今から六十年前の1960年代に、
司馬遼太郎は、幕末・明治維新関係の小説を大量に執筆・発表しました。
自らも出征した昭和の戦争(太平洋戦争)を考えたとき、
「日本の戦争の本当の原因は、明治維新にあるのではないか?」
という思いに至ったそうです。
坂本龍馬を書いた「竜馬がゆく」、新選組と土方歳三を書いた「燃えよ剣」など
有名な作品がこのころ発表されています。
「峠」もまた、同じ時期に執筆された作品で、
幕末の越後長岡藩(新潟県長岡市)を生きた武士・河井継之助を書いています。
河井は、新政府の西軍と旧幕府勢力の東軍が戦った戊辰戦争で、
新政府への従属を一方的に求めてくる西軍に対して、
藩の主権と独立を守るため、戦いを選んだ人物です。
この論理が、同じ東軍で戦った会津藩など、ほかの旧幕府勢力とは違っています。
東軍一般の戦争目的は、「徳川幕府の恩義に報いるため」というのが多いですが、
河井継之助の目的は、「長岡藩を独立国にする」でした。
乱世である幕末期には、本当にいろんな人物が出てきますが、
そんなことを考えた人は河井しかいません。
この突飛なアイデアを、彼は開港地横浜に来ていたスイスの武器商人から得ました。
「ヨーロッパには独立国スイスがある。ならば、日本にも独立国長岡藩を作ろう!」
ということです。
すごい思想ですよね。
明治元年正月、戊辰戦争が始まり、
会津攻略を目指す新政府軍は、六月には長岡に進みます。
河井は、新政府の参謀に自分の論を展開しました。
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場所は、新潟県小千谷市にある「慈眼寺」というお寺です。
会見で使われた部屋が当時のままで残されていました。
河井はこの席で、次のように述べたと伝わっています。
①「新政府は会津征伐をするというが、それは薩長の私情の戦で、大義名分がない」
②「内戦を続けて国力を損なえば、日本が外国に侵略されるかもしれない」
③「新政府と会津藩は和平すべきで、我が長岡藩は中立国として仲介したい」
これらの提案は、新政府にとっては認められない内容でした。
「会津攻めに反対ということは、我々の敵だ!」
そう単純に思い込んだ参謀たちは、この論に怒り、
河井を追い返してしまいました。
戊辰戦争の中でも会津の戦いと並ぶ苛烈な戦闘になった
長岡の戦い(北越戦争)がここに始まります。
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そんな歴史を持つ新潟県長岡市に、今回、二泊三日で行ってきました。
長岡や小千谷には、北越戦争で戦った人々のために建てられた記念碑が、
このようにたくさんあります。
ちょうどこのあたりに、当時は新政府軍の砲兵陣地がありました。
向こうに見える山は、朝日山、榎峠という長岡藩の陣地で
信濃川を挟んで向かい合った状態から、砲撃戦が発生。
この撃ち合いが長岡の戦いの初戦になりました。
新政府軍は、長岡藩のような小さな藩が立ち向かってきても、
簡単に潰すことができると考えていたことでしょう。
しかし河井は、戊辰戦争の発生することを数年前から予期しており、
何年もかけて藩を改革し、軍備も戦国時代の制度をやめ、
刀も槍も捨て、近代的な軍隊に作り替えていました。
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中でも有名なのが「ガトリング砲」。手動式の機関銃です。
二門、アメリカから輸入していました。
薩摩藩、長州藩、会津藩どころか、旧幕府でも持たなかったものです。
また、最新式の大砲で射程と威力の高い「アームストロング砲」も購入。
兵士に持たせる銃はすべて最新式のライフルに更新し、全員に持たせました。
河井の改革のもとで、長岡藩は戦闘に備えていたのです。
小藩である長岡藩がこのように重武装しているとは誰も思わず、
長州藩の部隊は、戦闘で指揮官が撃たれ、戦死するなど
被害が続出しました。
しかし、毎日続いた銃撃戦の中で、河井も足を撃たれる重傷を負い、
両軍の兵士たちも、次々に倒れていきました。
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北越戦争最大の激戦地となった「大黒古戦場」です。
博物館が作られ、戦いの激しさを今に伝えていました。
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ここに一面に広がる水田は、かつては広大な沼地でした。
北越戦争では、泥の中で両軍の部隊が射撃と突撃を連日繰り返したため、
今でも、田畑や木の幹の中から、銃砲弾や、ライフルが見つかることもあるそうです。
長岡藩は激しく抵抗しましたが、大兵力の新政府軍に徐々に押されていき、
残存兵は会津に逃れ、さらに戦いました。
河井継之助は、戦闘での負傷がもとで、会津に後送される途中、命を落としました。
河井に対する評価は、現在でも分かれています。
自分の理想とするところを実現するため、行動力を発揮して実行した改革者という評価。
そして、平和な長岡藩を戦争に巻き込み、多くの犠牲者を出してしまったという批判です。
どちらも当たっていると私は思います。
多くの改革を成功させた河井継之助は、物事を行なうにあたって大事なポイントとして、次のような言葉を残しています。
「まわりの評価を気にしてやるようではだめである。自分が正しいと思ったことをすぐにやりなさい」
幕末に異才を煌かせた長岡の英雄・河井継之助の魅力は、今でも多くの人を惹きつけています。
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